祇園祭と八幡山

祇園祭は貞観年中(859877)京の都に疫病が流行したとき、勅を奉じて神泉苑に66本の鉾を立てて祇園の神を祭り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って災厄の除去を祈ったのに由来し、平安時代の中頃からは規模も大きくなり、田楽、猿楽等も加わって盛んな賑わいを見せてきました。

室町時代になると町々の特色ある山鉾が作られて、応仁の乱前、既に67日に31基、14日に27基の山鉾のあったことが「祇園社記」に記されています。応仁の乱(1467)で都は灰燼に帰し、祇園祭も中絶しましたが、明応9年(1500)には復活し、その時から山鉾巡行の順位を決める「くじ取り式」が侍所で行われるようになりました。以後、町衆の努力により山鉾の装飾にも贅を尽くすようになり、近世には度々の火災で多数の山鉾が焼失しましたが、その都度、町衆の心意気によって再興し今日に至っています。

そみんしょうらいのしそんなり

粽「蘇民将来之子孫也」

八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来之子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。

その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来之子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祓」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来之子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与いたします。このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。

きょうと・ぎおんまつりとは

豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。

古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数-66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祭り、さらに神輿をも送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。

平成24年7月 巡行出発時撮影

祇園祭は、7月1日の「吉符入り」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。

はちまんやまのいいつたえ

京都祇園祭八幡山

初めて天下統一を果たした太閤秀吉が、入洛の時には常宿としていた新町三條の伊藤道光邸。その伊藤邸は、三條町(当時は伊藤町と呼称)に在りました。その三條町の町衆が、何百年もの間、護り引き継いで来たのが八幡山です。

京都祇園祭の「八幡山」は、応仁の乱(1470年頃)以前の記録に既に登場しています。その後、明応9年(1500年頃)や、延宝時代(1680年頃)の文献にも詳しく記載されています。

古くから大変親しく敬われている八幡宮信仰の根源は九州の宇佐八幡宮、京都府八幡市の石清水八幡宮など、いろいろな道筋が有るようです。その八幡宮と命名される神祠は、全国で4万を超えるそうですが、当八幡山は、京都市下京区に在った「若宮八幡宮」が、東山五条に遷された後に、当町内に分祠されて祀られたようです。八幡山の、金箔鮮やかなお社の中にお祀りする「応神天皇騎馬像」が若宮八幡宮との関わりを物語っています。こうして、町内にお祀りした「八幡さん」を、御輿のように担いで八坂神社へお参りしたのが祇園祭山鉾巡行の始まりと言われています。

32基の、山や鉾が、牛頭天王、天照大神、神功皇后、鈴鹿明神、天満宮、観世音と、実に様々な神々を勧請して祇園さんへ巡行するのも大変趣きが有ります。その長い歴史の中で、各山鉾が懸装品を競い合って豪華にしてゆき、今日のように立派な美術品の巡行になりました。

八幡山も、三条町の町内の人達やその周りの人々の協力によって一所懸命伝統を守ってお祭りを執り行い、次代に引き継ごうとしています。